亡国?

本日、日本政府の代行機関より「立ち退き」を求められる。

妄言、妄語、妄執を牽制する「桜鍾青年隊」に・・・・・・。

「立ち退き」を求め、そして、何が残るのか?

東日本大地震の復興もままならぬのに、「神仏」を「封じれる」と妄想している。いやだね・・・・・・「愛するものが無いなんて」大慈悲がわからないとは・・・・・・合掌。

 

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君知るや?

「泡沫(うたかた)の 夢を覚ますや 梅一輪」・・・・・・「君知るや 野辺の朝路の 露ほどに 渇き潤(うるお)す 才を待てりを」・・・筆者、近作

人生は時として、大海原を小舟で渡る擬態の様でもある。

異国の港に何が待ち受けているか?

その予備知識すら求めず、ただ小舟を操る自負を期待し、僅かな貯(わくわ)えと、小さなオールで成功者への道を求める。

松尾芭蕉は、「奥の細道」と云う課題の為、決死行とも云える旅立ちを決意し、「武蔵野を出ずる時、野ざらしを心に思い旅立ちければ・・・・・・」と記している。

「生と死」、「明と暗」、「優と劣」、「前と後」、「坐と歩」、「動と静」、様々な二項対立を眼前に置いて、言葉は輝きを放つ。

三月を「弥生(やよい)」と呼称するは、眼前の意識を問うのではないか?

明日は「ひな祭り」。

女子の成長に欠かせぬ「秘訣」を祭る日でもある。

与謝野鉄幹も、「妻を娶(めと)らば才たけて みめ麗しく情ある・・・」と情(なさけ)を失わぬ理想を詩に残している。

「情けない」が、常套句(じょうとうく)に成らぬ人生を祈念して、海の向こうの詩を沿えておこう。


  夫天地者萬物之逆旅 
  光陰者百代之過客   
  而浮生若夢       
  爲歡幾何        
  古人秉燭夜遊     
  良有以也        
  況陽春召我以煙景  
  大塊假我以文章    


  夫れ天地は萬物の逆旅にして
  光陰は百代の過客なり
  而して浮生は夢の若し
   歡を爲すこと幾何(いくばく)ぞ
   古人燭を秉り夜遊ぶ
   良(まこと)に以(ゆえ)有る也
   況んや陽春の我を召すに煙景を以てし
   大塊の我を假すに文章を以てするをや・・・

「そもそも天地は万物を迎え入れる旅館のようなもの、光陰は永遠の旅人のようなものだ、そして人生とは夢のようなもの、楽しさも長続きはしない。

古人は夜も蝋燭をともして遊んだというが、それには理由があるのだ、いわんや陽春は美しい景色で私を招き、大地の恵みは私に文章の才を授けてくれたのだ。

  會桃李之芳園     
  序天倫之樂事     
  群季俊秀        
  皆爲惠連       
  吾人詠歌        
  獨慚康樂        
  幽賞未已        
  高談轉清        
  開瓊筵以坐華     
  飛羽觴而醉月     
  不有佳作        
  何伸雅懷        
  如詩不成       
  罰依金谷酒數      

 「いまや桃李の芳園に集い、天倫相語る楽しさを述べよう、ここにいる多くの俊秀は、みな謝惠連のような詩才を持っている、この私ときては謝康樂にも及ばない、

ほめ言葉が終わらないうちから、高談はいよいよ清らかに展開する、珠の筵を敷いて花咲く樹木の下に座し、羽飾りのついた杯を飛ばして月の光に酔う

佳作が作れなければ、どうして胸の思いを述べえようか、もし優れた詩がかけなければ、その罰は金谷の酒の數ほど受けよう。」・・・

「李白」の思いは、人生は試練の逆行の勢いに呑まれず、才を豊かにする旅であると看破する事である。

軍歌にも「往けど進めど道無き道を 往けば戦野は夜の雨 済まぬ済まぬを背中に聞けば 馬鹿を云うなと又進む 兵の歩みの頼もしさ」と、ハンデを抱え、逆境を越える精神を鼓舞している。合掌

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喝?「雄叫び 桜鍾青年隊」から転載

「伊沢サン」の「みたまのふゆ」を阻害しては国家は成立しないのである。

当然、宮内庁から、届くべき「図書費」が届かない。

「有職故実(ゆうそくこじつ)」の大意を無視しては成らないと思うのである。

「有職」を公家、「故実」を武士の作法とする見解もある。

忠臣蔵、松の廊下の刃傷沙汰は、この「有職」と「故実」の常識のギャップが招いたとも?

歌舞伎では、「見得」の「押し戻し」が芸の義と成るので、作中人物の名を敢えて違えるのである。

一般的に「有識」とは過去の先例に関する知識を指し、「故実」とは公私の行動の是非に関する説得力のある根拠・規範の類を指す。

そうした知識に通じた者を有識者(ゆうそくしゃ)と呼んだ。後に転じて「有職」と呼ぶようになった。

なお今日、深い学識・見識を持つ人を「有識者(ゆうしきしゃ)」と呼ぶのはその名残である。

2月11日、建国記念日であり、旧の言い方では紀元節。

「木の信仰」の道であるから奈良・「橿原」に「建国」の大義を偲ぶ日でもある。

木の信仰」と言えば、全国に一万余りある諏訪神社の総本社「諏訪大社」の「御柱祭り」に用いる「御柱」も、「木の信仰」に従うで「樅」の大木である。

有名な「木落し」は、何があっても「木の信仰(御柱)」に縋り付く「男伊達」を世間に広める舞台でもある。

九州の諏訪神社では、「おくんち祭り」を行うが、「くんち」は自然界で多用する「訓・智」で、語源は「アイヌ語」である。

「神様の世界」は、俗界の「勝負事」ではなく、「個体差」を「暗示・啓示」する世界で、早くに人間界の迷妄を卒業させる意図がある。

「個体差」の存在に目覚める「気力」で、沖縄の方言では「くんち」は「やる気」を意味する。

「アイヌ民族」は日本全土に居たが、日本の開示に伴い、北海道や沖縄に生活の拠点を設けた

神事に用いる「幣(ぬさ)」は、アイヌ語では、木を削った「イナウ」を捧げる意味。

その「イナウ」が埼玉県の秩父に民芸品としてあり、北海道の秩父別(ちっぷべつ)は、「我々の辿り着く川」の意味がある。

白鳥の飛来で有名な、関東、埼玉県、比企郡、川島(かわじま)町を流れる「越辺川(おっぺがわ)」の読みは「アイヌ語」である。

「訓・智」の絶対効果を持つ「神様の訓・智」で「おくんち」となり、漢字の読みで「訓読み」は、日本語の音にする読み、「訓」は「まさし・ただし・さとし」の音響効果を有すのである。

日本国は「木の信仰」の明瞭を期して、「橿原」の「橿」は漢字でなく、「邦字」とされる。

「事由」の「事」は「神様の世界」、「事」に触れないから「無事」である。

日本の行政では、「事」を「侵さぬ」、「無事」の大義を「知る」者が「知事」の任につく事に成っている。

「無事息災」は、出力の「息」が「災い」に及ばぬから「息災」である。

表現の「不可蝕」に留意し、意味無く「触れる」事を「恥じ」とするのも、日本文化の特色であろう。

他方、紀元節を知らぬ、節度無く、無知にして寄付をしない文化人達が、それぞれ自己の迷妄を出し合い、泡沫(うたかた)の酔いに身を任せ、自責の念から自己を解放する学芸会の日でもある。

凡(およ)そ、文化というからには何かしらの「回帰性」を交え、自他の自己形成の奮起を促すべきかと思う。

360度の角度を有していれば、円(縁・よすが)となる。

360度の旅を時計回りに行えば、右目が内在の「見・聞き」、左目が外界の「非・祟り」を確認する事ができる。

時計回りと逆に移動すれば、左目が内在の「見・聞き」、右目が外界の「非・祟り」を確認出来る。

仏教に限らず、「右繞(うにょう)・左繞(さにょう)」の周回性を修行に盛り込んだ宗教は山ほど存在する。

円の大成である、「円鏡智」を説く、仏教では想像を絶する空間と時間の恩恵への感謝から、信仰形態が生じる。

発意(ほっち)の証(あかし)は、「賛美・役・録・事由・度」の「欠く・度」の線形を有して、自己の回帰性を確かめるに至る。

海を越えた西洋でも、凡そ600曲ほどの讃美歌を宿す使命を旗幟(きし)とし、ゴスペルを唄って来た者に歌手への道は開かれるのである。

対して、神道は「旧・事由・度」の自己矯正を「産(神様の啓示)・戒」行い、回帰性を四角の線形に求める。

大脳の機能性からも、視点を四回、替えることで、外界と内在性の確認を安易におこなえるのであり、長じれば立体と化し、宇宙の神秘とも云われる「キュウーブ(立方)」になる。

台北の故宮博物院に収蔵される5000年前に作られた玉鐴。高さ47cm、先端の円い穴は天であり、それを囲んだ四角い形は大地を表しています。

四角い大地が何段にも重ねられ天に向かって延びています。玉鐴の内側は上から下まで円くくりぬかれており、その穴は天の神と地上の人間とを結ぶ通り道とされています。

四角い大地と円い天、この玉鐴を持つ者こそ、神の意志を地上に伝える王でした。

玉鐴は王の権力、すなわち政治権力の象徴と考えられています。・・・・・・

様々な体験や、経験を踏まえて「立方体」になるなら、様々な「可変性」も有している事に成る。

不安な方は、「立方体(キュウーブ)」に関する書籍や、映像作品を見てから自己の打診を行えば善い。

円と四角(方)、古人の埋葬には「前方後円墳」であり、重畳なる「瑞穂(みずほ)」の思想を頂く生活(たつき)では、食器に箪笥(たんす)を用いる。

食への感謝、食して後の言動性に重きを置かなかった戦後教育では、衣服や雑貨を仕舞う箪笥(タンス)を家具に据え置いたままである。

箪笥は、今で云う丸や四角の弁当箱のことである。

電化製品の保温機能も無い時代の「叡智(えいち)」とは、恩恵を害(そこな)わない戒律に安立(あんりゅう)を覚えたのである。

ギャルとは、低級、下品の代名詞でなく、「サルベージ」の修行者である、「サルベージ」とは、海の遭難者の救助や、沈没船の引き上げを意味する。

「超」も、「うざい」も「きもい」も、「サルベージ用語」なのである。

前記理由に従い、正確を期すれば「ギャル」は、「義・遣る」なのである。

物々交換、バーターがヘタクソになった現代で、「義」や「愛」、「生きる勇気」と交換出来る何物を貴方は持っていますか?

「旧・事由(90)」に関して、蘊蓄(うんちく)を述べれば、東京の渋谷の「渋」は止まりの生態の下に四つの線形を設ける、渋谷ギャルの上級者は「澁・屋」と肝銘し、「止まり」の生態に三つの視点を要す。

静止形に疑問の観点を設けるのは、仏教の禅だけでなく、個々の哲学でもある。
「釈尊」以前にも、インドには「禅」を懐疑する信仰が在った。

「釈尊」は、禅に「三昧(さんまい)」を求めたのである。
「釈尊」から28代目の「達磨」が、「禅」の境地を伝道し、今に至った。

正確に云えば「達磨」の禅は、「達磨」の禅で、「二祖」以降の禅は個々の禅らしきものと言える。

禅の大意に「報本反始」の修整が求められる。ほうほん‐はんし【報本反始】 《「礼記」郊特牲の「本に報い、 始めに反(かえ)る」から》自然や祖先の恩恵に報いるという道徳観を示す語。

日本では 幕末より第二次大戦まで、祖先信仰と国家神道推進のため政府により盛んに鼓吹され た。

何故?「本に報い始めに反(かえ)る」思想が戦後に突然、消滅したのか?謎である?。

「伊沢サン」への不遇対応(多年にわたる隔離幽閉)と妙に重なるのである。

精進と命数の大事を伝えているのは、「桜鍾青年隊」だけである。

人生に精進と命数の履行性、履修性を求めねば、「神経症」や「精神疾患」を招くのだ。

多年にわたる精神的自虐を国民に強いていたと思うのは私一人ではあるまい。

謎ついでに、

「國之常立神」の開示による「世直し」の教団「おほもと(大本)」を紙切れ一枚残さず弾圧した経緯と重なるのである。

「おほもと(大本)」の信者には、「合気道の植芝盛平」や「日本海海戦の「秋山真之」がいた。

「三昧」を求めれば、「三昧耶」であり、「三摩耶」でもある。

悟りの「三昧」以前までは、「教条主義」で「暗唱」の優劣がマジョリテイ的に主流と思われる事もある様だ。

暗証は仏教語である。禅家(ぜんけ)で用いるところでは、経論(きょうろん)の理解や 研究を軽視し、座禅などの実践だけで悟りに到達できるとすることをいう。

暗唱の禅師とは、「祖師を求めて行脚しない修行僧」を罵(ののし)る言葉。

「経に依って義を解するは三世仏の讎(あだ)。経を離れて義を解するは魔説に同じ」・・・「百丈広録」

禅が敢えて、「否定の否定」を打ち出して、個々の既成の狭隘(きょうあい)なる自信を打ち砕く意義が此処にも存在する。

仏教経典には、「三昧耶」、「三摩耶」、両者の存在を示している。

精進の大義を加えれば、「耶」は「疑問・反語・感嘆」の三種の性格を有し、「三昧・三摩」に、この三種(耶)を掛けると「さざんがきゅう」、なおかつ「クロス(十字架)」の尊厳を失わないで「サザン・クロス(南十字星)」の明光と関わる。

「旧・事由」を、自然界の逆旅(げきりょ・はたご)と思えば、「10と9」で「問う・旧」、云うまでもなく「東急」を意味し、「旧愛・求愛」を良しとするギャルは、「109」を機智(機知)とするのである。

慈愛はギャルばかりの習うべき属性ではないと、メンズの「109」も女子の「109」と対面しているのである。

余談だが「ギャル伝説」を誤解して、「GAL」ガルと読んで、「高橋信二」は迷妄に辿り着くインスピレーション団体を運営し、その「ガル」にノイローゼで訪れた「大川隆法」が、インスピレーションを更に虚妄にし、「原典回帰」の原理を疎遠にし「幸福の科学」を運営しているとも?

ヘブライ語の聖書には「神様の名」は「9文字」、西洋は濁音が多く、濁音を「清音」に直す神道に拠れば「10文字」となる。

「神様の名」は「9文字」と「10文字」で構成される事に成る。

「旧・事由(9・10)」の「旧」にも「事由」にも、侵害、侵略しないから「信仰」であり、「宗教」であろう。

ゆえに「宗教」とは「旧」と「事由」を述べた「原典回帰」の道でもある。

止まる事が少ないと書いて、「歩」。「歩」に「三ずい」を加えれば「渉(わた)る」で、難解を克服する漢字となる。

渋谷駅のスクランブル交差点に立てば、両者の存在を知る事が出来る。至福の一時でもあろう。

求心は、救心であり、堕落との休心、「旧に回帰する」心性こそ、本来の祝時(祝い事)と思われる。
合掌
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

衆生の百千種の諸病、更互して恒に来たりて悩まさる。

死賊、捕らえて伺い、常に殺さんと欲し、無量の衆苦もて自ら沈没す。

云何(いかん)が善人も復た悩を加えんや。

讒謗(ざんぼう)謀害して慈仁無くんば、

未だ彼れを傷つくるに及ばざるも、殃(わざわ)いを身に被(こうむ)る。

俗人、悩を起こすは、是れ恕(じょ)すべし。

此の事、世法にして悪業の因なるも、

亦た自ら『我れ善を修せり』と言わず。

清浄道(しょうじょうどう)を求むるの出家の人にして、瞋恚を生じて嫉心(しっしん)を懐(いだ)かば、

清令(しょうれい)なる雲中に毒火を放てるなり。

当(まさ)に知るべし、此の悪罪の極深なることを。

阿蘭若(不諍・ふじょう)の人、嫉妬を興さば、阿羅漢有りて、他心智もて、

『汝よ、何ぞ愚かなるや』と教誨苦責(くしゃく)せん。

嫉妬すれば、自ら功徳の本を破す。

若し供養を求むれば、当に自ら集むべし。

諸々の功徳の本、身を荘厳す。

若し、持戒、禅、多聞ならずんば、虚仮(こけ)の染衣(ぜんえ)にして法身を破す。

実に是れ乞児(こつじ)にして弊悪の人なり。

云何(いかん)が供養を求めて身を利さんや、

飢渇寒熱(きかつかんねつ)の百千の苦、

衆生、常に此の諸々の悩に困(くる)しみ、

身心の苦厄、窮尽(ぐじん)する無し。

云何が善人にして諸々の悩を加うるや、

譬(たと)うるに、病瘡(びょうそう)の針を以て刺すが如く、

亦た獄囚の拷(う)たれて未だ決せざるが如く。

苦厄、身に纏(まと)いて、衆悩集まる。

云何が慈悲もて更(あらた)めて劇ならしめんや。

是くの如く種々に悩覚を呵(か)し、是くの如く正観して悩覚を除(のぞ)かん。

・・・坐禅三昧経より「姚秦三蔵鳩摩羅什(くまらじゅう)訳」

三摩耶戒(さんまやかい)三返

われらはみほとけの子なり
ひとえに如来大悲の本誓(ほんぜい)を
仰いで不二(ふに)の浄信に安住し
菩薩利他の行業(ぎょうごう)を励みて
法身(みほとけ)の慧命(いのち)を
相続し奉らん

   おん さんまや さとばん            
(ほとけさまの静かなさとりの境地に住
 します。) 合掌

・・・後段、画像はエピステーメーの像。当初から頭部を構築しなかったのかは謎である。もし、そうであるなら、人は如何に他人の顔色を窺(うかが)いながら、本来の「知識」とはかけ離れたイメージに頼っているか?の芸術性と言える。

〔哲〕 プラトン・アリストテレスが、単なる感覚的知覚日常的意見であるドクサ(=憶見)に対立させて、確かな理性的認識をさして呼んだ語。

ラテン語のスキエンティア scientia(英語のscience の語源)にあたるギリシア語。もともとは〈ドクサ doxa〉つまり蓋然的な見解と対立し,とくにプラトンにおいて真実在に対する学問的で厳密な知を意味した。現代哲学においては,フランス構造主義とりわけ M. フーコーによって新しい意味を与えられた。すなわちそれは,ある時代において多様な諸学問を横切って言説のレベルで見いだされる連関の総体のことである。

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無能?「雄叫び 桜鍾青年隊」より

国会議員の質が低下すれば、政治の本質を挙げず、従って人生観も説けず、併行する相対性の履修、履行も説けず、「相反的」社会をイメージしてしまう。

正論から俯瞰(ふかん)すれば、分業が連携せず、なす術もない、ただひたすら天を仰ぐ「仰天(ぎょうてん)」の有様でもある。

「相反的」社会のイメージは、やがて「相克・相剋(そうこく)」をイメージし扇情、煽動に終始する。
互いに争うだけの社会を招いてしまう。相剋とは対立するものが互いに争う事。

人生観とは、相対性である善悪、是非、好き嫌い、優劣、強弱、先行後発、鋭愚、等等のバランスを保つ所に意味や意義を見出すのである。

これだけで人生観と言えるか?と思う必然性が、集団社会では存在する。
宗教観と云う自己形成の努力が無いと、人格性、向上性は存在しないのである。

日本仏教は、日蓮宗を仏教信仰の「嚆矢(こうし)」とする。
前記の相対性は、俗語、俗情、俗勢にあってのもので、信仰による世界が開けねばならない。

そこで日蓮宗では、「五重相対」を習い、信仰の土台ともする。
信仰世界での、「命数世界」と「精進世界」を設けて、盤石の世界観を提唱する。

茶道と云う世界でも、俗語、俗情、俗勢に凝り固まった「凝点(ぎょうてん)」の弊害を指摘し、「点の前」での所作を習う。

「点前」を意識する事で、「静」や「寂(じゃく・さび)」の本質を構築する。

私的な「凝点(ぎょうてん)」を、他の環境や社会や世界、宇宙に及ぼしてはいけないのであり、亡国を危惧し、私的な「凝点」の解きほぐしの為の義務教育である。

「凝点」は言葉であったり、感覚であったり、習慣であったりもする。

無為な時間の経過に接するのは、義務教育とは云えない。

第一次世界大戦は、経済の自由の確立で「スイス」を、第二次世界大戦では、心の自由の確立で「日本」を再生させる意図があった。

戦後の連合国の「押しつけ憲法」の背景には、あらゆる克服すべき自由の意図があった。

仏教観に拠れば、何千回、何万回、何億回、何兆回と繰り返し、「この世」は営まれているのである。

過去の経緯である個々のアカシックレコードを見出すには、心の自由が存在し、克服すべき必然がなければ成らぬ。ゆえに仏教では「中道」を説く。

神道では「連綿性」を唱える。個々の個体差があって、自己を見出し、益々の精進が叶う。

当然、そこには綿の「白」で表される「他との距離感」・・・同着(撞着)の拒否であり、拒絶であり、否定でもあろう。・・・・・・

日本語が「膠着語(こうちゃくご)」としてスタートし、分別の為、様々な体験、経験をする由縁でもある。

「能」を「はたらき」と読む所に、日本の文化的意義がある。

日本の芸能の「能」は、「直し」の趣向である。

能の舞台衣装は多くは「直衣(のうし)・直垂(ひたたれ)」を着衣し、言わずもがな様々な「直し」を奨励する。

自然界との折り合いをも考慮し、「篝火(かがりび)」を焚(た)いて行う演出が、能の本道とする説もある。

また、正式な能であるには、「三番叟(さんばんそう)」を演目に容れねば「私人」の舞いともされる。

三番叟は、式三番とも云われ、能楽において式三番は極めて神聖かつ重い曲として扱われており、翁、千歳、三番叟、囃子はそれぞれ習いとされている。

流儀によってそれぞれに異なるが、素人・玄人ともに、女性による上演には一定の制限が加えられている(女性には許しを出さない、年齢制限を設ける等)。

また上演にあたっては役者は一定の期間別火(べっか)という物忌みを行い(特に女性と同じ火を使うことを忌む)、当日は鏡の間に祭壇をしつらえ、舞台に上がる前に各役が盃事切火で身を清めるなど、特殊なしきたりがある(流儀によっては開演の前に舞台に切火を切ることもある)。

諸説もあろうが、能の流派は、「観世・宝生・金剛・金春」を大和四座、金剛座から分かれた喜多流を併せて、「四座一流」と云う。

江戸期に喜多流は金剛座から分かれ、金春流の影響を受けた流派とも云われる。

四座のうち、奈良から京都に進出した「観世・宝生」を「上掛(かみが)かり」と呼び、引き続き奈良を根拠地とした「金春・金剛」を「下掛(しもが)かり」と呼ぶ。喜多は「下掛かり」に含む。

「金春」は「こんぱる」と読み、「今春」とした時期もあった様だ。
「は」が「択一」的音を意味し、はるの「は」を「ぱ」と言い直すのである。

銀座にも、何故か「金春(こんぱる)」に因(ちな)む名が多数、見られる。

「はる」と簡単に云ってしまうのは、能を伝え続けた多くの文化人への無礼にもなる。合掌

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狩野 常信?

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最近、当家に寄寓する事に成った「狩野 常信」筆、「荘に鹿之図」を堪能有れ!合掌

狩野一族は代々、「絵師」を志し、幕府のお抱え絵師で在り続ける必然に立つ。

当然、目の肥えた人物達に感動を与えるには、「狎れ・馴れ・鳴れ、熟れ・熟れ・成れ・慣れ・生れ」の技法に秀でる必要もある。

見る」とは何か?

「見た」とは何か?

問いかけは、芸術家にとって「樋(とい)・かけ」でもある。

「天」の「意(こころ)」を知らぬは、「天(あま)・視ず」とも思え、雨水」を集めて地上に流す「問いかけ」を平面に映すのであろう。

近所の小学生達の写生レベルでは、動機(モチベーション)の有無は極めて単的でもあろう。

人々の本当の幸福とは何か?

「絵」を会(介)して本来の自己に目覚めさせる意義に立った時、「目に映った」のに「忘我自失」?で在り続ける惰性を阻止する手段、方法を講じたとしても不思議は無い。!

「目に映す」努力すら思いつかない不自然を、人々は知らなければならぬ!!!

芸術性とは、能(はたらき)であり、覚醒であり、同義的に法悦に向かうきっかけでもあると自負しなければ、ライフワークを失ってしまう。!!

まっ、そこで「木挽町(こびきちょう)」の絵師の頭領は、題材に「荘ニ鹿之図」を選んだ。

「五叉路」が「康」、健康の意義でもある。

「六叉路」が「荘」で表され、「天意」の「厳(いか)めしさ」が加わり、「荘厳」の意義でもある。

仏教観で補足すれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の交叉(交差)に、猜疑(さいぎ)の蠢(うごめ)く六叉路に立つ痩せた鹿がこちらを「凝視」するポーズを用いたのか?

狩野 常信(かのう つねのぶ、寛永13年3月13日1636年4月18日) – 正徳3年1月27日1713年2月21日))は、江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。

・・・

連絡先 izawaitiban@docomo.ne.jp

 「蕩子の生涯貯蓄無し

  山雲渓月是れ青氈

  東西白踏す 一条の道

  途中家舎の辺に在らず」(夢窓国師)

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五蘊和合?

情報の氾濫により、他人の情報に懸想するのが処世術と思える人も居る様だ。個々の「五蘊和合(ごうんわごう)」の道を失意してはならぬ。・・・・・

「五蘊和合」は「意(第六識)」の象徴でもある。「意」を尽くしてこそ本来の自己の道を開けるのである。・・・・・・

肉体に「意」や精神(霊・魂)を吹き込んだ行為を為さねば、知らず知らず自己の心身は現実逃避に向かう。現実逃避は、ばらばらの「五蘊」のままで自己の霊性を曇らす。・・・・・・

単的に云えば、「霊魂の道」は「桜鍾青年隊」への喜捨から始まる。・・・・・・

現実逃避の最たるものは、宇宙理念に則した「教主」への奉仕性を拒否し始めるのである。

これ、「肉主霊従」と云う最悪の自己忘失である。しゃべくり(話し)だけの「霊」や「魂」など、語るに落ちるのである。

・・・「愛」を語るには「霊主肉従」の原理に立たねば成らぬ・・・・・・

今年は辰年、「龍」が求めるものは「奉仕・由(宝珠)」である。・・・

限りなく見えない奉仕の衣を着て、「龍」はその身に「鱗」を宿せる。「鱗」は仏教観の「有漏・子」でもあろう。・・・・・・

「五蘊和合」を掲載した、明くる1月28日には、この記事と連動する様に「富士五湖」周辺で我々を忘れるなと「富士五湖」群発地震発生。

「霊峰」と「五蘊和合(富士五湖)」は密接な関係なのである。・・・・・・

肉体の死より精神の死を恐れよと叫んだ先人も多い。・・・・・・

「六合」と書いて、「くにのうち」と「神武天皇」は「詔(みことのり」を発した・・・・・・

また「何処に往(い)まさば天の下の政(まつりごと)を聞こし召さむ、なお、東に往かむ」とも・・・・・・

古義、新義を問わず、真言宗の信徒は「大日如来」の恩恵を尊ぶ事が肝要であろう。いたずらに他人の教えである「人霊」に惑う必要は無い。

・・・・・・「糞」しか出来ない「糞坊主」を「くそ坊主」と言って何が悪い!!!浄土系の教えでは、僧の風体をしてても、「僧」と思うなと云う戒律に近いものが示される!!!

・・・・・日本は「神州の國」・・・「天神地祇(ちぎ)」を敬う國である。

生あるもの全てが、誓約(うけい)に「地祇(くにつかみ)」と昇華する意志を有し、その為の修行、修養を行う國でもある。

「十世界」を尊び、「八世界」を鎮める修行の國でもある。・・・・「十」と「八」併せて「木の信仰」となる。・・・・これ本来の「八紘一宇」なり。・・・・

「唵、嘛、呢、叭、彌、吽」六字真言咒,具「摧破煩惱,開智慧、降魔、增富、救貧、消災、延壽、救百千難苦,摧滅貪、瞋、癡!!!

日本は「木の信仰」である。「「忙中、閑あり」門構えに「木」を込める自己を見出せ!!!「木・愛」だ!「木・愛」だ!「木・愛」だ!合掌

・・・・・・「富士山」は「神体山」とされる。・・・・そして「富士山」を鎮護する「浅間神社(全国約1300社・浅間は「あ・さ・ま」を遠慮(遥拝)して『せんげん』と読む)」は「木花咲耶姫(比売)」を祀る。

コノハナノサクヤビメは、日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。

また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。

コノハナサクヤビメコノハナサクヤヒメ、又は単にサクヤビメと呼ばれることもある。

『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。

「阿多(薩摩国阿多郡阿多郷・旧『金峰町』・現さつま市)」は「阿多隼人」を意味し、「阿多隼人」の首領の娘で「神阿多都比売」である。「阿多隼人」の娘にして「霊峰」を護り、「浅間」を「せんげん」と言い直す事由でもある。

オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)ホスセリホオリ(山幸彦)を生んだ。

・・・・・・

仏教の魔縁

三障四魔(さんしょうしま)とは

  • 三障(Skt:āvarana-traya)
    聖道を妨げ、善根を生ずることを障害する3つ
    • 煩悩障…仏道の妨げの心、貪・瞋・痴(とんじんち)の三毒の煩悩によって仏道修行を妨げる働き
    • 業障…魂に刻まれた業、言語・動作、または心の中において悪業を造り、為に正道を妨げる働き
    • 報障…因果応報、悪業によって受けたる地獄餓鬼畜生などの果報の為に妨げられる働き
  • 四魔(Skt:catovāro-mārāh)
    生命を奪い、またその因縁となる4つ、またそれを悪魔にたとえたもの
    • 陰魔…正しくは五陰魔(ごいんま)といい、心身からくる妨げで、色・受・想・行・識の五陰が、和合して成ずる身体は種々の苦しみを生じる働きをいう。五蘊魔(ごうんま)ともいう
    • 煩悩魔…煩悩障におなじ、心身を悩乱して、菩提・悟りを得る障りとなるから煩悩魔という
    • 死魔…修行者を殺害する魔、死は人命を奪うから死魔という
    • 天子魔…第六天魔王(天魔マーラ・パーピーヤス、魔羅波洵他化自在天ともいう)の働き。
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ルネサンス?

画像はルネサンスの象徴であるイタリアのフィレンツエの遠景である。

ルネサンス(仏: Renaissance 直訳すると「再生」)、14世紀から16世紀にかけてイタリアで起こった古典、古代文化への復興を意味する。

ルネサンスは、芸術復興で「主意(趣意)」に欠けた駄作を戒める運動でもあろう。

芸術を語る時、主題であるモチーフが不変、普遍的な課題を擁している必要が有る。

この前提が無ければ、誰が作っても芸術作品となってしまうからだ。

歴史にも芸術性を挙げれば、歴史的課題に貢献した人々の心労を偲ぶ事が可能になる。

言葉と文字の相関性を逸脱すれば、存在が意味不明になる。

この存在の意味不明を仮に「反文学」と定義すれば、マスコミも「反文学」と共存し、「反文学」の助長を為しているとも言える。

文学と云う概念は、日本では明治以降のものとされるらしい。

とすれば、「明治維新」は文学の序章であるのか?

であるなら、文芸復興(ルネサンス)は現代の課題なのであろうか?。

文学の定義に「主意」や「大意」が、「永世の必然」や「滅亡の危機」を知らせるものとすれば、結構、理解し易いのである。

日本にあっては、東大閥、東大官僚主義的な主張が、教育界に影響を及ぼす事が多い。

影響は、「光」があって「影」が出来、その影が何かを知らせる為、「響き」を持っていると云う考えである。

似た意味で「反響」なる言葉もある。

こちらは、「正」に対する「反」で、「反の影が織りなす響きの鎮め」の必然性に基づいて行使される言葉である。

どちらも、「光」や「正」に敬意があって、「復興性(復元性)」が生じるのである。

日本では、「光」や「正」を神聖域に置いて、「不可侵、不可蝕、不可作」とする。

「おかさぬ、さわらぬ、つくらぬ」で自己の動静を保全化するのである。

言葉を沿えれば、「大全のなかの小全」とも云えようが、「大全」を「十」、「小全」を「八」に置き替えて、「十」と「八」を合わせた「木」の字の「木の信仰」に基づくのである。

「神仏」との共存で、特に「神様」との共存で「比定(ひてい)」と言う用語で「不可侵、不可蝕、不可作」の領域の「尊厳」を守り続けるのである。

仏教の補足的位置を占める「禅」では、当初に「前庭の柏樹子」を公案とする。

「根」も「幹」も、「枝」や「葉」が安定を得ているで、「樹」と称する。

その「樹」の「子供」から、自己形成を促すのである。

当然、現在に至った過去や、前途洋々たる未来を踏まえた現在を「時間軸」とし、「坐」の不動、不変、普遍を擁する教えでもある。

日本国の主題とされる「動かし坐(すま)さむ」とは、こうした経緯を抱くのである。合掌。

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経綸?

時おり、「大酒飲み」の話題が提供されるが、その「大酒飲み」が、理念や理想を携(たずさ)えて「酒」を呑んでいたかは話題にならぬ一辺倒社会。

一辺倒と言えば、都会を離れたくない人々の被災地復興のアジテーションも耳障りだ。

都会から離れ、「僻地(へきち)・鄙地(ひなち)」に暮らす人々の心情を思っているのか??????

求心性も、遠心性も、自己の心境の相対性の確立を本旨とする。何故?こうも一辺倒にある者達が、闊歩(かっぽ)できるのか?

日本国は、「恥じ」の文化で進展、進化が可能な国であり、「一辺倒」は、「恥じの現在進行形」の渦中に存在してる筈。?????

宇宙の創世に連なる信仰の無い者達が、何故か?高額なギャラを貰い、乱費、浪費に明け暮れている。?????

酷いのは、国会の椅子に座っていれば、年収4千万円が約束される社会。・・・・・・

理念、理想が無いから搾取した税金の内訳のファッション自慢で、雑誌にも掲載を要求・・・・・

仕分けの専門家が結局、仕分けの対象者としてオミットされた。・・・・・うーん、やるな「ドジョウめ」って言うか???話題が違うんじゃないの・・・・・世界的金融危機に鈍感過ぎる????

実体性の無い「言いくるめ」が出来れば、「内閣」に入れる。それって、「内・欠く」じゃ、ありませんか??????

「挨拶」のできない宗教界、政界、経済界、スポーツ界、芸能界・・・エトセトラ・・・。・・・日米の人口比と反比例する議員数??等々?

宇宙の創世に連なる信仰が無いと言う事は、自己否定、自己の存在否定でもある筈??????

ポスターは、カクテルのマテイーニの宣伝で、混淆(こんこう)し調合された洋酒に、酔える魅力があるのではないかと思い掲載した。

一説に「酒」は精神を昂(たかぶ)らせ、思想を語らせる魅力が有るとも言われる。

この酒の勢いがわからず、酒に溺れる人も多い。

「酒の神様」の「大山咋神」が「松尾神社」に祀られる。

東京では白山に「松尾神社」が祀られているとも・・・・・・。

「松尾神社」の由来に、渡来人の「秦氏」の氏神とも・・・・・・。

経綸は「けいりん」と読む。意味は、国の秩序を整え治めていく事であるが、国には夫々(それぞれ)歴史が有り、歴史には「霊性」を宿す必然が有る。

日本国は歴史的にも、「名」を尊ぶ国であり、「名跡」に依存せず、自らの努力を以て、「名籍(みょうせき)」とする誇りを持つ国でもある。

「名」以前に「呼称」を正し(質し)、「名は体を表す」の定義に辿(たど)り着く民族性を有す。

「名」に伴う尊厳を確立する行為は「霊的」作業でもあり、この「霊的」作業を以て、「霊とは規範なり」の格物を公(おおやけ)とする。

「名は体を表す」教育理念が無い学校教育(国家)は、自己の存在理由(レーゾンデートル)と乖離(かいり)し、亡者である自負に酔い痴(し)れるものである。

本来人類は創造の段階から成長進化の暁には、自ら大宇宙の縮図である「神の子」であることに気付き、自らを背後から育(はぐく)む霊的宇宙生命体としての守護神の存在を認識する様になるのである。

成長を語る時、必然性の過程として「発達心理」の存在を認知認識する必要にも駆られる。

発達心理の過程に、「霊」の様々を知り「霊」の分け隔て(分類)を行う能力を宿す使命にも巡り会う。

建国の大義や、開闢(かいびゃく)の精神を宿す過程に、「人霊」の「馮依(ひょうい)」との関わりを正す行為も求められる。

「霊」の「世界」が規範的集合なら、各人各様なる規模や程度に準じた規範も有り、この文章内では「人霊」として「馮依的存在」として説明を加える。

「人霊の馮依」には、「救いを求めるもの」や、「善意で共助(協助)するもの」もあろう。

中には、自らが「神仏」や、「法統者」、「教祖」の如くにして、人を惑わす「悪霊」的存在もある。

ストレスを「不可抗力」の蓄積と意味すれば、現代人は個々の「時間軸(存在の主体性)」の設定問題から、こうした迷いや惑い(ストレス)から自己を解放する手段や方法をも宿す必要が有る。

「経綸」の言葉自体、必要がありながら随所で用いられては居らず、戦前の「大本教」や、「祓い(悪霊の馮依を祓う)」を習う「天理教」に用いられているのも不自然な感がする。

「人霊」とは異なる崇高な育みの存在に目覚める努力は、日本民族の固有の精神性でもある。

日本民族の定義は、東大の官僚主義的(一時しのぎ)なものもあれば、京都大学のグローバル(地球愛)な民族性もある。

日本語が自然発生の言語にして、体験則、経験則の「直し」の言語として、個々に宿れば成長の支障は甚少(じんしょう)でもあり、支障の甚少を助ける意図で、府中に「大国魂神社」、調布に天台宗の「深大寺」がある。

個々の「心の布」を織る作業は避けては通れないのであり、「調布」の「調」は「みつぎ」と読む。

「深大寺」には、「神代植物公園」が隣接して、「人」は「植物」を経過して存在する必然が有る事由を示唆(しさ)もする。

「霊性」の進化に、他を救う(利他)「霊験」の力を宿す必然もある。

「霊験」は、個々の宿命や使命を、「空」・「無」・「零(ゼロ)」に戻す回帰性を伴い、個々の更なる心の成長を促す。

明日は「鏡開き」の日とも言われる。鏡は「各務(かがみ)」とも言われる。

各々の「心の務め」が併存して、映る鏡もある。

「心の鏡」の輝きを失えば、心は曇り、路頭に迷う失調の動物でしかない。「輝き」とは、永遠に連なる「光」を失わぬ「軍(いくさ)」である。合掌

少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲・・・・・

少年老い易く学成り難し・・・

一寸の光陰軽んずべからず・・・

未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢・・・

階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋聲・・・・・・・・・・・「

池塘」は、丸(魂)と四角(霊)の池・・・・・・池塘春草の夢とは、「霊」と「魂」の確立を指す。


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リメイク?

倩(つらつら・熟もつらつらと読む)、感じるに、芸能界の失速を・・・・・・
芸能である限り、表現の要は正しい日本語であり、日本語の彼方でもある筈・・・・・・
日本語の彼方に郷愁を設ける事で、禅の粗略を叱る「主客否定」にも通じる。・・・
思うに芸能界の悲劇は「たら・れば症候群」の渦中で有言無言の方向性をヒットさせる力量に欠けていることじゃ。・・・
野球に例えれば、「打者」と云う視聴者が、塁上に立てるセンスを提供するアドバイスを持ってない。ピッチングとスローイングの予測を立て、自己のバット(BUT・しかし?)をスイングさせて、野手(野趣)の間隙(かんげき?感激)に打球を運び、塁に向かって走る。
このアドバイスは、畢竟(ひっきょう)、自己の足(五感を伴う)で確立するしか法が無い。・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
「貴方の本能の欲求の延長線上にあるものを知って欲しい!!!
「伊迦波提羅那」イカハダイラナ・・・如来の名。
最上天王如来。「陀羅尼雑集9」
・・・「伊」の字「は、「伊字門ハ一切法ノ根。不可得故ニ。」(金剛頂経釋字母品)・・・
タイトルは、「禅にあらずんば」のリメイク?。
・・・禅は「禅語」を用いて、心境を練る。
これが他の宗旨宗派からすれば、すこぶる具合が悪い。
・・・「禅語」を解するに、何億年以上の歳月を要するから。
・・・「宇宙大の自己」を証明せよと、禅書は伝える。
具合は、読んで字の如く、「具わり」が悪いのだ。
具合について、空海の「いろは歌」を借用すれば、「祖・名(那)・和・利(理)」が悪いとこう来る。
日本仏教の禅宗の修行は「曹洞宗」からと規定されとる。
曹洞宗は「法華禅」である。
従前に「法華経信徒」のプライドを確立し、これが増慢・高慢・傲慢でできとることを悟るわけじゃ。
誰が規定したか?この僕ですよ。・・・読者に感銘して頂きたい「節」がある。
「喝!』・・・読者の主観形成の為のブログに非ず。読者の客観形成の一助である。
幾ら読書に励んでも、或いは「物知り」を訪ね歩いても、禅寺で「坐」を組んでも「禅」にはならぬ。!!!
華厳経では、53人の「善知識」と出会う必然を説く。
単に員数の「53」に執着せぬように、「53」の中で重複もある。言わんとするは、世俗の「善なる知識」と読まぬ危機感を宿せと言う事である。!!!!!!
禅は「以心伝心」から正体を現す。
「以心伝心」・・・二番目に置いた「心」を先頭に持ってくる。ここからじゃ・・・・・・
心に三様あり。「集落(心)・「思量(意)」・「了別(識)」と。・・・・・・
大概、達磨大師から数えて、何十万人、何百万人、何千万人もの人語を介して「禅」らしき風体(ふうてい)にたどり着く。
他人の話や書籍の力なぞ、禅宗では否定される。
最も眼光、紙背に徹する業を持ってりゃ別だが・・・・・・
主観形成と思って「坐禅」を試みる者の何と多いことか?
客観という熟成に向かうところの、客観否定の使いものにならぬ小客観じゃよ。・・・・・・
人語か?、禅語か?価値基準は何じゃろか?否定の否定、これじゃ。
否定の否定で接する、これが力量の少ない者の智慧じゃ。
それじゃ、禅の道具は何じゃ?
否定じゃ。他を介さぬ否定じゃ。
禅語で、修行の浅いもの。これが者裏(しゃり)。「者」は、ここ・そこなどの近くを意味する。
修行が深くなれば内面性の確立を意味する。
当然、内面性の確立と伴走をなす「那」が疑問視される。
「那」も、これまた修行が浅いと、「その・あの」の遠称に用いられる。
当然、者裏と伴走で那裏(なり)もある。
指示代名詞の乱用が自己を曇らす。
禅では、指示代名詞の乱用を恥じ、その懺悔の開墾(悔恨)する為、「あれ・これ・それ」、「あの・この・その」、「あち・こち・そち」等の「悟り」を求める。
指示代名詞の乱用の「野放し」は、ひいては自が分からず自己撞着・自己喪失となる。
日本神道では、「那」は神聖な時間を意味する。
仏典では、時間の最長が「劫」で、最短が俗を悔い改めた「那」じゃ。余り詳しく出てないが・・・
・・・あらゆる仏教の書籍を読みあさっても、仏教の真意には到達し得ないのである。・・・・・具足・具足・また具足じゃ・・・
基本は「祖師」に見えることじゃ。あれこれ質問を抱えてもつまらん。
大疑団の形成が禅の素因じゃ。
面壁に際し、何を志向してるか?
・・・・・・喫茶去(きっさこ)、西洋で云う所の「コーヒーブレーク」じゃ。
勉冉、勉冉、また勉冉
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ワカラン人?

この日本国に、外来種で国学の「ワカラン人」が居る様だ。

誰有ろう・・・修行を失意したチベットの逸脱者の事である。・・・「僭称」と「詐称」の妄想生活に明け暮れている。

・・・・・・・・・・・

国学とは日本古代の文献を研究して日本民族固有の精神といわれる「古意」「古道」を追究しようとした学問や学派を指す。

・・・日本語は古意・古道を尊び、人生の正鵠(せいこく)を得る目的を有した言語である。

正鵠とは、「鵠」とは弓の的の真ん中の黒い点。これに因んで物事の要所、急所を意味する。また、「鵠」は鳥では「くぐい」と読み、「白鳥」の古名でもある。

白鳥が何故?黒点として用いられるのか?宇宙的にはブラックホールとホワイトホールの相関性に準(なぞら)えるのか?

また、目的なる熟語から連想すれば、白鳥の「目」が黒く見えて「目の的」で「目的」なのか?

何れにしても、状態(CONDITION)と、状況(SITUATION)の分別がついて以降の要約になるのか?

状態と状況が加味されて、具体的判断が可能性を増すのは、小学生にも理解出来る筈だが、小学生には「状況」の主体性である「先行(先明)」の存在を表現できる単語が少ないので、大人の仲間入りに距離感が生じる。

じゃ、何が「大人」か?と云えば、これも「先行(前提)」に何を置くかで内容が異なる。

正月の出し物の「お笑い」が、全身の筋肉を振動させ「他を容れない」原理から逸脱し、破談した内容に重きを置いている感がする。

「お笑い」の原理も、裁判の「二項対立」の原則と合致し、「対立の間(はざま)」に正解があるとされる。

正義と悪、合法と非合法(違法)、自国と他国、実直と愚直、学歴と無学歴、有力(男子?)と無力(女子?)、律動と受動、状況判断の有効と無効、阻害(疎外)と親密(親愛)等々、考慮すべき二項をよりよく知るスタート地点に戻る事も正月の習いではないだろうか?

「ぼけ」と「つっこみ」の双方に、存在理由(レーゾンデートル)があると窺(うかが)わせる技法、技術に不安が残るのである。

「せちがらい」の言葉も、仏教の信仰があれば、「世知(せち)」が仏教用語で利益(修行)、功徳(修養)を重ねる意味で、「辛い」はレベルの高さと受容されるが、仏教の信仰が無ければ、単に「暮らしづらい」の「辟易(へきえき)」感を指してしまう。

東洋思想は、「昇竜思想」でもある。意義ある生活を重ねて昇竜(昇り龍は男子)し、天の世界に貢献し、再び下向、降龍(下り龍は女子)するのである。

ヨガ(瑜伽)の「チャクラ」も、前記の事実と符合する。

ヨガ(瑜伽)の代表的な「ハタ・ヨーガ」の「ハタ」の「ハ」は太陽、「タ」は月を意味するとされる。

伝統の世界に、女子を容れない慣習は、この大義の真っ当にある。

さて辰年の本年、「上り下り」の機運(気運)をいや、増しましてくださる事を祈念します。合掌

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